HAT-KZ(ハットカズ)システム

年明け、朝まで生テレビを見るとはなしにつけていると、長妻昭氏が出ていたので、3ヶ月ほど前の彼の衆議院での代表質問を再読してみた。彼が名づけた、日本を無駄遣い国家にしてしまうHAT−KZ(ハットカズ)システムとは、今の官僚制における職務の遂行、ある意味官僚にとっての自己実現自体が、構造的に非生産的な自己保身しか生み出さないシステムになってしまっていることを解き明かすキーワードともいえる。語呂がよくないのでさっぱり広まらないが、切り口は議論のために有効だ。番組の終盤、都市と地方の格差の問題が話題になったとき、猪瀬直樹氏が、中央が悪い・地方が悪いとどちらかを悪者にする議論をするべきでなく、問題は官が握っている規制なんだと考えるべきとの発言をしていた。その通りで、構造に目を向ければ、議論は、精神論ではなく、政策論に向かう。HAT−KZをすぐにおさらいできるようメモしておこう。

H・・・ひもつき補助金システム
A・・・天下りあっせん・仲介システム
T・・・特別会計システム
K・・・官製談合システム
Z・・・随意契約システム

2007年の3冊

今年刊行された本で、運よく目を通すことができ、印象に残ったものを3冊あげるとすると以下。少しの立ち読みしかしてないので(高額だよ高額)リストにあげられない『財投改革の経済学』高橋洋一東洋経済新報社)は、間違いなく重要本。

戦後日本人が無意識に前提としてきた社会認識の枠組みの崩壊を、インターネットがもたらした新しいコミュニケーションの誕生とクロスオーバーさせ、言論が発せられる主体の属性によらないで評価される、今われわれが直面している革命的状況を描いたレポート。本書で使われる「われわれ」というキータームが読者に一定の自明性を呼び起こすほどには、日本社会はまだ単一的なのだと再確認した書でもある。1人が書いた本なのに、かつて20年近く前、多数の書き手が時代を描写するべく多角的にアプローチしていた、元気だった頃の別冊宝島を読んだような不思議な読後感があった。佐々木氏は、矢継ぎ早に出される本に圧倒されつつ、2007年、個人的に一番読んだ書き手。

戦後日本社会が自明視してきた労働市場におけるフェア(公正)の概念の転換をせまる書。これまでの公正とは、同一年齢者間の結果の格差を少なくすることだった。これからの日本は、年齢や社会的属性によらず市場への参入機会の格差をなくすことこそ公正だと理解し、社会制度も変えていかなければならない。海外の社会福祉の動向や取り組みを紹介しつつ、深い理念のレベルで提言を行なった書。蛇足だが、本書ではNHKワーキングプア3で紹介されていたような就業訓練に類する海外の取り組みも紹介されている。が、それはあくまで事例紹介の各論であり、主題は労働市場の構造転換をせまる理念の提示にある。題名が「ワークフェア」でなく「ワーク・フェア」である理由を読み取って欲しい。ワーキングプア3が展開した提言など、本質論を離れた薄っぺらな対症療法にすぎないことを、本書の読者は知るだろう。

  • 『新聞社』河内孝(新潮社)

上記2冊とも戦後日本の自明性が変化に晒されていることを扱った本だが、その共同幻想ともいうべき自明性の演出に高く貢献し、かつ、そうすることで利益を享受してきた存在が、新聞社だ。今の新聞社が拠って立つビジネスモデル自体が破綻の危機に瀕していることを、大手新聞の元経営幹部が本書で明かした。新聞社は公共の言論空間を提供するかのように一般に認知されてきたし、自認もしてきた。しかしすでに、紙面を覆う言論の大半は、経営から遊離した意識せざる偽善家(アンコンシャス・ヒポクリット)のものだ。そんな言論など、ビジネスはおろか言論の自由市場からも退出願わねばならない。佐々木俊尚氏は、新聞が公益性を確保するため非営利事業として生き残ることへの期待を書いていたが、そのような覚悟がある新聞人は、はたしてどれだけいるだろうか。

すっかり放置しているブログなのに最近、過去のエントリーに対して、はてなポイントをくださった方がいました。ありがとうございます。自分はいちおう社会政策や労働分野に関心をもつ者ですが、実際に関心のある分野は散漫で、先にあげた方面で画期的な出来事があるたび、なにかしら言及したくなるものの、関連情報の読み込みだけで時間が過ぎたりします。情報のインプットは楽な作業なのでそちらに流れてしまいがちなのです。でもそれでは、情報をシェアしたり対話したりのコミュニケーションの醍醐味は到底味わえず、セレンディピティに繋がらないですね。ブクマを公開し始めたのは、自分が一方的に情報を得るだけのスタイルは望ましくないのではないかと思い始めたからです。そちらでたまに備忘録コメントを書いているので思考の痕跡があります。

さて、文体を変えて。自分としては記憶に残すべき出来事があったので記録に残しておく。梅田望夫氏の『ウェブ時代をゆく』で提唱されている成功法に、ロールモデル思考法というのがある。有益な発想で、ぜひ意識していきたいのだが、自分にとって「この人」と思い浮かぶ人は、とりあえず二人いる。いずれも著作や発言を通して活動を知っているだけで、深く知っている関係ではないが、随分以前から知っていて影響も受けてきた(はず)。昨日、そのうちの一人と会話を交わすことができた。そしてさらなる行動を自分はとった。ちょっとした集まりの場で会ったその人に、自分はある企画について、閉会後に手紙を渡した。企画そのものは、大それたものなので実現しなくてもあたりまえだと思っている。某所でその企画について明かすと、場の者に一笑にふされた。でも自分としては重要な企画だと思っていて、ダメもとの精神で、見てもらうだけでも意義があると考えた。手紙には企画の内容等を書いた二枚の紙、企画に関連した資料、自分を紹介するための成果物と名刺を同封した。時間がなくて会う直前に書くことになり、手書きしたので字の汚さが気になったが、珍しいことに全く誤字のないまま書きとおすことができた。 昨日は、尊敬できる人と会話を交わせたことも画期的だったが、自分としては、その人に、自分が何者であるか、何をしたいと思っているかを説明した手紙を渡すことのできるテンションであったことが大きかった。たんに尊敬している人にミーハーで近づいたわけじゃなく、自分なりの必然性をもって接触できたことに意味があった。企画そのものは実現されず、何も生まないかもしれない。でもロールモデルとして意識しようかという人に、恐れることなく、自分の信じるところを問うことができた事実は貴重な体験となった。もう一人のロールモデルとなる人にも、どこかで交錯する機会があった際、自分を説明できるよう、日々を重ねていかねば。まずは成果物をつくらねば。

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

「ウェブ時代をゆく」欲しい!”。これを機にエントリー再開!きっとそういう本なんだ。

関心を惹かれるテーマの本が最近発刊されていて、関連するイベントもあるようなので、あわせてお知らせ。関係者の方にお知らせいただいたものの、門外漢ではあるためリアクションできなかった。ただ、今後さまざまな表現物が、デジタルなプラットフォームに集約されていくほどに、コンテンツとコンテナーの分離が引き起こされ、従来のメディアで自明視されていた制作方法やビジネスモデル、権利処理のあり方が再構築を迫られること程度はわかっている。というか日々、ウェブ上で情報収集と情報発信をしていると、悩まされることも多い。それらを考えるときの思考の導き手となる教科書が発刊されたということ。

コンテンツ学 (SEKAISHISO SEMINAR)

コンテンツ学 (SEKAISHISO SEMINAR)

http://www.sekaishisosha.co.jp/cgi-bin/search.cgi?mode=display&style=full&code=1281

  • イベントGLOCOM - (seminar)IECP研究会「「コンテンツ学」の成立をめぐって」

http://www.glocom.ac.jp/j/news/iecp/seminar/index.html#008903



同じコンテンツと言いながら、政府ではこんなものが。お茶飲み会でムードづくり?

  • コンテンツ・日本ブランド専門調査会

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/tyousakai/contents_brand/

ベーシック・インカムでは貧困を救うのに足りない

  • 404 Blog Not Found:俺たちはES細胞じゃない - 労働が市場化しない理由

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50924668.html


池田氏の論を受けて小飼弾氏が、政策としてのベーシック・インカムを提唱している。彼もアルファ・ブロガーなので、彼がごろがいいというだけでプッシュするベーシック・インカムに惹かれる人が出てくることに違和感を感じるのでひとこと言っておきたい。ベーシック・インカムは最低限の所得保障を万人に保障するという構想だ。万人に平等なスタート地点を保障するかにみえる構想は、機会の均等をイメージさせ、直感的に、魅力的にうつる。しかし、ほんの少し考えればわかることだが、支給された最低限の保障をのちのちの生活のスプリングボードとして有効に活用できる人間もいれば、有効に活用できない人間も出てくるのは必至だ。ベーシック・インカムを実現するにはこれまでの社会保障の分配を再編成する必要があるが、いったん分け与えた所得を食い潰し、失敗してしまった人を想像すれば、ことはそう簡単でないことがわかるはずだ。

私見だが、そういった無限後退モラルハザードを避けるためには、就労へのインセンティブ社会保障のなかに埋め込む以外にない。従来見られた一方的な給付型の社会福祉から、就労インセンティブを内在させた社会福祉の要請は、レーガンサッチャー時代のネオリベラリズムを経て以降の欧米で、議論されてきたことで、政策的にも実現されてきている。それは、負の所得税に近い概念で、個人的にプッシュしたい言葉で言えば、給付つき税額控除と呼ばれる制度だ。収入が高まるほど税額控除が段階的に適用される一方で、一定の所得水準に達しなければ、所得補填の給付がなされる。この制度はついに9月半ば、政府税調が導入にむけた検討を表明し、民主党も積極的に研究をはじめている。

いま議論されるべきは、一市民として最低限保障されるべきトータルな社会保障とは何かということであり、そのとき就労という人との係わり合いを通して貧困を解消していくインセンティブ社会保障の中に埋め込むことが重要だ。最近ちくま新書で刊行された、二つの貧困に関する書、現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)ルポ 最底辺―不安定就労と野宿 (ちくま新書)はいずれも、貧困とは経済的な困窮だけを指すものではなく、人と人との関係性の喪失に着目して理解されるべき概念であると説いている。社会保障に就労インセンティブを持ち込むことに対し、ときとして、働かないでもいいじゃないかという価値観で対峙しようとする論者がいるが、彼らの多くは関係性の貧困にまで目が届いていない。

今の日本では正規雇用者として組織に帰属することで得られる雇用保障が、制度的に手厚すぎる。経済原理として、所有から利用へと価値を生む経済行為が変化している社会では、個々の労働者も(組織への)帰属ではなく遂行から成果を獲得する存在へと移行するのが自然だ。今は正規雇用と非正規雇用の雇用保障の壁が、個々の経済主体の試行錯誤(遂行)を阻害するほどに大きい。日本の労働生産性が、先進国で最低水準にまでなってしまったのは、労働市場、のみならず産業の面から見ても市場全体が硬直的であるからだろう。

正規雇用を享受している者たちは、非正規雇用者や貧困者の悲惨を憂えるのならば、なぜ自らの身を振り返って考えることをしないのだろうか。賃金を平準化しろとなどとは言わない。労働法および社会保障の適用対象として現に格差があるのを、公正なものに是正しようと呼びかけるだけだ。先のエントリーで書いた雇用保障のフラット化、給付つき税額控除、この二つが、格差と貧困の問題を論じるときの突破口になると信じている。