古くから言われる「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛むとニュースになる」という命題を、レガシーメディアにふれていると思い出す。どのニュースと具体的に指摘する前に徒労感を感じるほどくだらないときがある。そんな感想もありふれているが。

アカデミズムなら、たとえ名目的にせよ、市場性を離れ社会を価値自由な観点からモノゴトを意味づけていく役割がある。一方、ジャーナリズムは常に市場との相関において情報発信を宿命づけられている。差異こそが市場価値を生む源泉である以上、情報が一般的通念や平常状態とズレがあるほど、価値を生む。メディアは意外性のある見解やニュースへとブレやすい宿唖をはらむ。

メディアが多様化しているいま、レガシーメディアの地位は相対的に低下している。そういう状況で、市場において高い値のつく情報を発信するには、より差異のある情報、いわば逆張りの情報を発信することが価値を生みやすい。レガシーメディアのジャーナリズムが扇情的なものに走りやすくなる背景には、その相対的地位の低下という構造的要因もある。

一方で、メディアをとりまく市場性こそがコンテンツの質をチェックしうるのだという見方も根強い。だが規制に守られたマスメディアは真の市場性に晒されているわけではない。つまり、マスメディアの中にみられる煽情性は、一定の枠の中、お約束の中での変動にすぎない、と解釈すべきだろう。横並びの中での差異性の演出だと眺めれば、レガシーメディアに違和を感じたとしても、スルーできるようになるだろうか。