もっとスマートに書けないのか俺

人に自分の知らない何かを聞いてみること、疑問点を発見したら納得がいくまで調べること。そうしたいことは沢山あっても、たいていは理由をつけ諦めてしまうのがほとんどの人の行動パターンなのだと思う。自分を振り返ってみれば、ここに聞けばいいのに、という何と多くのことを諦めてしまっていることか。自分には質問を発する資格がないのではないか、そういうためらいが一番の壁だ。そういうとき思い出すべきことは「本気で知りたい・調べたいと思っているか」ということなんだろう。


調べごとをして発信する、ジャーナリズムがそういう仕事なのだとしたら、今の自分はほんの少しだけ調べごとをする自分に大義名分がつけられる。その意味で前よりは少しはマシだ。たいてい調べごとを仕事にしている人間は「これは仕事だ」という大義名分をつけて、第一歩のアプローチへの勇気を調達する。さらに組織ジャーナリストであれば自らの行動の後ろ盾に組織の名前を使うことで、一方的に聞く(取材)という行為を正当化する理由付けを得る。それのもつ意味がどれほど大きいかは、定年が視野に入ってきた共同通信の記者が会社の名刺がなくて自分に取材ができるだろうかと不安を漏らしていることからも想像がつく。フリーにとっては調べごとをしたことを「伝えることに意義がある」と信じればこそ、いや、その微かな思いこそを裏づけにして、聞き出すことへの一歩を踏み出す。


なぜこんなことを書いているのか。聞き出すということでは官庁やメディアへもアプローチすることがある。最終的には対応してくれるそれぞれの現場の「人次第」ということになるが、組織によって、あまりの対応の違いに唖然とすることがある。官庁はたらいまわしにされることもあるし、ぶっきらぼうなこともある。露骨にウソをつくこともある。ただ多くの場合、こちらが名乗れば向こうも名乗らざるを得ないし、説明責任を求めれば、回答なしという回答にせよ、なんらかの対応が帰ってくる。それを公開して評価することができるわけだ。対応が分かれるのがメディアだ。メディアが発信しているある事実をめぐって質問したいことがあったとする。まずは代表電話へかける。ときには現場の記者に直接つないでくれることさえあるし、すぐに対応できない場合には先に向こうから連絡先と対応者を教えてくれてコールバックまでしてくれるところもある。


ところが全く対応が異なる社もある。今日アプローチした地方新聞社がそうだった。代表電話でこちらが概ね質問の趣旨を伝えたところ、現場判断と思ったのだろう、編集部へ回された。編集部の人間は当該情報にかかわる記者は忙しくてその場にいないという。ではその記者に連絡する方法を教えて欲しい、またこちらは時間的余裕があるので当該記者が抱えている仕事を終えてから連絡するにはどうしたらいいかと問うと、かなり沈黙があったあとで、質問があるなら広報を通して欲しい、と言い出した。こちらは社としての見解を問いただしているわけでもなんでもない。質問の趣旨は伝え、その質問内容はその社が不利益を被ることでは全くない。記事に関連する事実をめぐる質問だ。なぜ広報にまわされなければならないのか対応の意味がわからない。「うちの社はそういうことですので」。そして広報レベルに聞くようにという判断をした対応者は名のることがない。これが人から情報を得ることを生業にしている会社の対応なのかと疑問が残った。記者が署名で記事を書く、メールアドレスを公開する、そうして記事に責任をもつ時代になりつつあるのにこの対応はなんだろう。大手新聞社などはそれなりに丁寧に対応してくれるところもある。それはやはり傲慢な姿勢のままでは経営できない状況にあるからなのかもしれない。今日はたまたま地方の県紙だった。まだまだ地方紙は傲慢な対応をしていられるほど余裕があるということなのかと感じてしまったのだった。