正しい働き方(正規雇用)という考え方自体が社会的排除を生んでいる

議論のあまりの非論理性に思わず嫌味を噴出させ周囲を不快にさせたり、呆れ果てて沈黙を続けたりすれば、いま進みつつある事態を許容することになる。そのことに危機感を感じるべきだ。あきらめちゃダメだと何千回も繰り返さないとダメだ。個人的には、自分が望ましいと考えている政策群は、方向として正しいという確信がある。ただし、それらをどのように実現していけばいいのか、その工程は見えていない。やはり少しづつでも書き続けていく中で見い出していくしかないのだろう。壊れたレコードのようでも書き続ける中で、事態が変わるかもしれないし、自分のなにかも変わるかもしれない。

たとえば労働市場改革について。何年か前に、村上龍氏の文章に触発されて、正社員という言葉そのものがおかしいのだと気づいたことがあった。正社員という言葉は、正しい社員と分解でき、反意語は非正社員となる。よく似た言葉の正規雇用という言葉も、正しい雇用と分解でき、反意語は非正規雇用となる。ここにみられる「正しい」という言葉から、正規雇用は、正しい働き方、正当な働き方、まともなな働き方を指しているのだと解される。それはウラを返せば、正しくない働き方があることを含意し、非正規雇用とは正しくない働き方なのだと暗示している。

なぜこのような呼び方が定着したのかわからないが、英語では、「正しい」を忠実に訳した場合の、コレクトだのライトだのを雇用に結びつける言葉は聞かない。常用雇用や典型雇用、期間の定めなき雇用と訳されているのに相当するフルタイムやレギュラー、パーマネントといった言葉も、職場とのかかわり方や期間による形容であって、「正しい」ににじむ道徳や判断にかかわる意味はもっていない。つまり、外形的な働き方自体に、正しいとか正しくないなどという価値観をもちこむことは、少なくとも英語圏では、ないのだ。働き方の内実を表するときには、正しい正しくないはあるが、それは仕事の結果への価値判断だ。

2月に行われた共産党の志位和夫委員長と福田康夫首相との国会論戦は、派遣、それも日雇い派遣の問題をめぐった質疑がなされ、話題を呼んだ。派遣、なかでも日雇い派遣の問題を中心に追及し、ワーキングプアの味方であるかのように語る志位氏の語る論理に快哉をあげた人々がいた。朝日新聞毎日新聞は、志位氏に喝采の声を送った反響を報じて、共産党の姿勢をもちあげた。

質疑を追ってみると、志位・福田の両者が、ともに、終身雇用型の正規雇用こそ安定雇用であり、社会に安定をもたらす望ましい働き方だという前提で考えていることがわかる。この共通の前提において、両者に差異は、みられない。派遣労働など、いわゆる非正規雇用は望ましい働き方でなく、その増加は抑えられなければならないと認識されている。

 志位 総理に確認しておきたい。常用雇用の代替、すなわち正社員の代替として派遣労働を導入することはあってはならない、この原則はいまにおいても変わりませんね。
 首相 現在でも、この労働者派遣制度を臨時的・一時的な労働力の需給調整制度として位置づけていることに変わりはございません。
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 志位 つまり、非正規雇用を増やすことは、短期的には日本の競争力を強めるかもしれない。しかし、長期的には持続可能な発展は望めない。経済と社会を担う人的資本の形成を損なう。若者がその可能性を存分に伸ばして、社会の担い手として成長する条件を奪ってしまう。こういう警告ですが、このILOの警告を、総理はどう受けとめますか。
 首相 私も、中長期的に見た場合、そういうその雇用の形というものは決して好ましくない。

福田首相の認識とは、すなわち政府の認識であって、厚労省が先ごろ発表した雇用政策の基本方針も、若年雇用対策に言及した部分にはっきりとみられるように、常用雇用化を進めることが無条件に望ましいというスタンスで書かれている。はたして今後の社会を設計していくうえで、このような考え方でいいのか、大いに疑問を感じる。皮肉なことに、厚労省の基本方針の副題には、「すべての人々が能力を発揮し、安心して働き、安定した生活ができる社会の実現」という文言がつけられている。それでいて常用雇用化こそ望ましいと発想することは、非常用雇用として大量に現に“存在”する人間を軽視することに等しい。

厚労省の基本方針や先の国会論戦の前提には、正規雇用者と非正規雇用者を区別し、正規雇用者は望ましい存在であり、非正規雇用者は望ましくない存在であるとする視線が、はっきりとある。ここにあるのは、外形的な働き方だけを見て正しい・正しくないの評価を下す、差別の視線だ。この正規雇用と非正規雇用を分断して認識する視線、非正規雇用を正しくない働き方だと認識する視線こそ、現代日本社会的排除を生みだす元凶のひとつだ。低い報酬で働かざるをえない非正規雇用者が増大し社会的排除が進んでいるとする切り口はありえるが、そもそも非正規雇用で働くということを正しくない働き方だと認定すること自体が、社会的排除の眼差しなのだ。終身雇用的に組織に帰属した正規雇用者の厚生を偏重する社会の制度設計は、はたして公正なものと言えるだろうか。人々を結びつける協働のあり方が変わりつつあるのに、なぜ組織に帰属し続ける正規雇用者だけが望ましい存在だと優遇される社会で、あり続けようとするのか。

国会のど真ん中で、ジャーナリズムのメインストリームで、弱者を救うかに見せかけて、社会に分断と排除をもたらすだけの、底の浅い議論が行われている。正規雇用とは、実際には定義の定まらないままに流通してきた言葉であって、漠然と、社会保険が整備され、定年まで身分保障もされ、ボーナスや退職金といった特典を享受できる「正しい」働き方だとされてきた。これまでの社会保障制度は、サラリーマンとして正規雇用の働き方をすれば、生涯にわたる報酬を極大化できるよう発達してきたため、今のままでもその働き方で利益を享受し続けられる人間も多く、その働き方がある歴史的条件のもとで成立した遺制にすぎず、社会保障上の差別を生み出していることに気づく者は少ない。労働市場改革にあたって、「正社員のイス」を増やすよう要求するしかないなどという、取り残される人間のことをたいして考えてもいない意見を目にすると、地獄への道は善意によって敷き詰められている、という言葉を思い出すほかない。正規雇用に変わる言葉を使っていかないと、なかなか事態は変わりそうもない。