<われ>なくして<われわれ>なし(1)

CNET Japan Blog - 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点:新聞が背負う「われわれ」はいったい誰なのか
http://blog.japan.cnet.com/sasaki/2007/02/post_13.html

ジャーナリスト・佐々木俊尚氏が、1990年代後半以降の社会の大きな変化の波、戦後社会の崩壊と、フラットな情報発信を可能にしたウェブ2.0的メディア状況、この二つの波が新聞の言説の説得力を急速に失わせていることを書いている。佐々木氏は、毎日新聞の新年の特集記事・ネット君臨に絡めるかたちで記事を書いているので、「新聞」と見出しに掲げているが、これはマスメディアと読み替えてさしつかえないだろう。マスメディアが<われわれ>の声を代弁するという虚構性それ自体は、実は以前から指摘され続けてきた。だが、近年にいたってやっと、個々人の拠ってたつ共通前提の喪失が、無視できないほど大きくなったのだと思う。


事は中流幻想の喪失といった階層性の問題にとどまらない。個々人が従来なら強い帰属感を覚えたはずの家族や企業、地域が確固たる実質性を失っている。これは個々人が自分自身をアイデンティファイすることが揺らいでいるということであり、<われ>とは何か、が単純に語りえなくなっているということでもある。こういう<われ>の自己定義すら定かでない時代に、<われわれ>を無条件に代表して振舞うマスメディアの語り口には、欺瞞が滑り込む。かつて民族や国民、弱者という言葉を持ち出せば、なにかしらの共通了解をもとに書き進められた言説が、説得力をもたなくなっている


毎日新聞は記事の署名化や「記者の目」欄によるオピニオンの発信といった、記者個人に拠って立つ言説の重要性を、もっとも理解していると目されている新聞だ、しかしその毎日の記者にして、無条件に依拠する<われわれ>を、都合よく使い分け、語ったり沈黙したりすることが、佐々木氏の前回エントリーで明らかにされている。社会全体の総意を代表すると仮託される<われわれ>は、公正・中立・客観といったメディアの立ち位置を語るときの指標を思い起こさせる。それらの立ち位置は、常に出来事のバイアスに晒されるがゆえに、位置情報を不断に更新する謙虚さが必要だ。だが、今のマスメディアに自らの立ち位置を問い直す謙虚さはあるだろうか?いまだに<われわれ>の神話を死守しようと足掻いているさまが目につく。


佐々木氏は、弱者に自分自身を仮託して記事を書いているらしい毎日新聞の姿勢に、疑問を投げかけている。収入面や社会的影響力の実態と、新聞社の人間たちの自意識にはズレがある。記事は、無条件に仮託された<われわれ>の虚構性に自覚的な若手記者たちの声を紹介して、締められている。当ブログの狭い見聞の範囲でも、マスメディアの上層部の人であってもメディア不信への危機感を語る人たちはいることにはいる。だが、こういった危機感や問題意識は、メディアの実質的な振る舞いを変えるには至っていない。これから、いやおうもなく変わっていくのかもしれないが、あまりマスメディアの良心に期待をかけるのも、彼らの延命をはかるようで、乗り気になれない。最近メディアが依拠する<われわれ>なる虚構をめぐって、あまりにひどい事例が目についたので書き留めておきたい。(2へつづく)