労働基準法の限界を知ろうともしないマスコミ

新聞社の記事盗用が相次いでいる。おそらくこれはネットによる横断的な比較・検証が可能になってきたから発覚している現象で、これまでも盗用は横行していた可能性はある。地方紙の社説の多くが共同通信の配信する論説参考をもとに社説を書くのはかなり知られているが、それがルーチンと化すと、コピー&ペーストで字数を埋めるのが仕事だと思い込むようになってしまうだろう。だがそういう習慣性による感覚麻痺よりも、原因だと思われるのが、社説のような高邁な記事を書く立場の人間の動機の問題だ。彼らは社会になにごとかを訴えていく切実な怒りの核のようなものをもっているのだろうか。


以前当ブログが書いた内容に関連するエントリーを踊る新聞屋−。氏が書いていて、そのなかに「それなりの労働規制(一部論者の中には、これを既得権益とまで言う方がいます)によって維持された中間層」というくだりが出てくる。彼は以前当ブログのエントリーをブクマして「ただ、正規雇用者に適用される労基法などを既得権と断じるのはいかがか」ともコメントしていた。中間層を保護している労働規制を死守することが、労働者を守る最終防御ラインだと思っているようだ。この人の心情は武田徹氏が2月18日付けのオンライン日記で言及したエセインテリの保守的心情そのものではないのか。記者ブログの中には自己韜晦を感じるものもある。だが、この記者のこの問題についての保守反動ぶりには哀しくなる。
http://162.teacup.com/sinopy/bbs?M=ORM&CID=583&BD=2&CH=5

「自分はリベラルだ」という自意識のひとが、実はもはや社会を変えようなどとは全然本気で思っていないし、一滴の汗すら流そうとしない、心情的にも態度としてもきわめて保守反動的な立ち位置しか取れていないことにもよる


マスコミで労働問題を語る良識派ぶった記者ほど、労働基準法が労働者のためにあるという自明性が崩れ去っている現実を知らない。取材をしてもそこから自分の立ち位置を問うていく意思の欠片もない。労働基準法が全労働者をカバーしていると思ったら大間違いで、労働基準法は主に大手企業の正社員だけに機能している。パート法はパート労働者、派遣法は派遣労働者というように継ぎはぎだらけの法制度が乱立していて、これらによってすら保護されない労働者が大量に生まれている。


そもそも労働基準法は、「この法律で「労働者」とは、職業の種類を問わず、事業又は事務所(以下「事業」という。)に使用される者で、賃金を支払われる者をいう」(9条)が定義する労働者しか保護しない。管理職ふくめ経営層はもちろんだが、派遣、契約、請負、専属的自営業者といった働き手が労働基準法からこぼれ落ちている。現在ILOで最大の労働契約上の問題として浮上しているのが、従属的な自営業者の存在だ。いかなる法的定義もない、個人請負やらフリーエージェントやらインディペンデントコントラクターやら、呼称はなんでもいいが、従来の労働法制が想定してない働き方をしている人が大量にいる。彼らの存在は労働者ではないのか?


今の労働基準法は、ひとつの企業組織の法人格内部を境界として適用される。だから、現実にはある企業に雇用されていなければその適用を受けない。さらに、ある法人格と他の法人格が上下関係にあるようなとき、それらに雇用された労働者が、実質的な上下関係にあっても、労働法的保護が及ばない。この限界を利用してコスト削減を図るのが派遣、契約、請負、専属的自営業者といった非正規雇用者の利用だ。


最上位にある法人格の正社員はいいだろう。その内部で労働基準法に基づいた権利とやらを主張すればいいのだから。だがそういった支配的地位を占める労働者だけを保護する労働法制だけでカバーできない実態が目の前にあるのに気づいたらどうなのか。例えば、新聞社は派遣社員契約社員といった非正規雇用はしていないだろうか。子会社たる印刷社やロジスティック企業と無関係だろうか。それらの企業に正社員がいても、そこにも派遣社員契約社員、アルバイトはいないだろうか。こういった場合、実質的に一体的な経済活動に携わりながら、労働法制上の保護に著しい格差が生じているのである。賃金上の格差は職制や職種によって異なるものだ。しかし、労働者として保護される基礎的条件に差別があるのはおかしいだろう。新聞記者にこの程度の想像力を望むのは高望みだろうか。故黒田清氏は、記者が向き合うべきテーマを突き詰めればただ二つ、戦争と差別だと喝破していた。目の前にある差別をなぜ座視できるのか。


労働基準法の成立を遡れば、工場において時間管理されたフルタイム・正規労働者を標準的な労働者像としている。今の日本の社会保障全体も「正規雇用・男性・世帯主」が最大限の利益を享受できるシステムになっている。これらの標準モデルの権利保護を強めることが、ひろく働き手の権利擁護に結びついていないのは、もはや明らかだろう。このようなモデルは、戦後の一時期に有効だった権利保護の対象にすぎない。


1986年の労働者派遣法の登場が、労働基準法の破壊だったという説がある。たしかにそれ以後、労働法的権利において脆弱な働き方が増加した。派遣法は続々と改正され、2003年には製造現場への派遣も解禁となった。だが、このように労働者を下位の法人格で雇用しようとする動きとともに、ある法人格が上位の法人格の登場によって下位におかれるという現象も起きている。1997年の純粋持ち株会社の解禁以後の企業再編の流れは、グループ経営やM&Aを増加させている。こういったひとつの法人格で完結しない経済活動は増加しており、既存の労働法的保護からこぼれ落ちる人々はますます増加している。正規・非正規の雇用保障格差の問題は、こういった労働基準法の適用対象としての格差でもあるのだ。


現状の労働基準法の限界も弁えず、労働法制に疑問をも抱いたこともない正規雇用に守られたマスコミの人間は、自分がマリーアントワネットであることに気づいていない。気に食わない動きがあればすぐ新自由主義などとレッテルを貼って揚げ足をとっていれば済むマスコミほど、気楽な商売はないだろう。こういったマスコミのまやかしの怒りのポーズを真に受ける若者が増えないことを祈る。