オリコン個人提訴裁判はジャーナリズムの核心を炙り出す(2)

(13日、1からつづき)今回の裁判は、日本のマスメディアのジャーナリズム機能を推し量る意味でも、大変興味深い展開をみせている。今回の裁判に関し、フランスの国境なき記者団が、すばやく烏賀陽氏の立場を支持する勧告を出したこと、一方、日本のマスメディアのほとんどが今回の裁判を黙殺していることは、実に対照的だ。


■【フランスの世界的NGO「国境なき記者団」のオリコン訴訟についてのコミュニケ】
烏賀陽を支持・支援し、オリコン社長・小池恒氏に訴訟を断念するよう勧告〜
http://ugaya.com/column/070210RSF.html


烏賀陽氏のコメントが雑誌『サイゾー』に掲載されたのは、彼がジャーナリストとして、音楽業界を批評・評価・検証してきた活動から、派生した行為である。その行為が封殺されようとしていることの重大性、というか、危険性が、日本のマスメディアの中の人たちには、あまり理解されていない。彼らに多くを期待しても詮無いことだが、日本のマスメディアの担い手たちには、ジャーナリズムが護持すべき言論の自由の核心部分、つまり、自由とはノイズのあるもの、間違いうるもの、さらなる言論によってもたらされるべきもの、といった理解が欠けている。

ジャーナリストはアウトサイダーとして物事を外から見る宿命を抱えており、このケースのような場合((1)で検証した)、その言論は間違いうる可能性を含めて守られなければならない。NYタイムズ対サリバン警部補事件判決とか、北方ジャーナル事件判決とか、言論の可謬性をもふくめて言論の自由と評価する判例があることを知っていれば、こんな個人提訴裁判には、義憤を感じるはずなのだ。日本のマスメディアは批評・評価・検証といったジャーナリズムの機能を無効化するクリティック・クレンジング(批判浄化)の病に侵されている。


一連の報道のなかで、ジャーナリズムの観点から一番重大な気がしたのは、烏賀陽氏がかつて活躍した朝日新聞の雑誌「AERA」が、この裁判を記事化しようとしてボツにしたということだ。この経緯について海外の記者が質問してくれているのを、烏賀陽氏の外国人特派員クラブでの会見の動画から見つけた。(動画2番目中盤)


■メディア・20行のコメントに“5000万の損害賠償”の理由(JANJAN
http://www.janjan.jp/media/0702/0702089655/1.php


質問への烏賀陽氏の回答によると、「AERA」は、この件の記事掲載を顧問弁護士に相談し、不可との助言を受けて、ボツにしたのだという。おそらくボツの理由は、記者が烏賀陽氏に語ったのだろうが、これは真実かどうかわからない。センシティブな案件をボツにする言い訳に弁護士の弁が使われた可能性はある。烏賀陽氏は自分の思うところに従って朝日新聞を退職したわけだが、朝日新聞側は社会的にみて円満退社した人物ではないと評価しているだろう。なので彼のことを同社の刊行物で紙面化することをタブーとする空気があってもおかしくない。

烏賀陽氏は「AERA」が記事をボツにしたことを killed と表現していた。ふつう、ボツの表現は turned down だし、おそらく慣用表現として烏賀陽氏は使ったのだろうが、象徴的な意味がある気がした。これを聞いたとき、「AERA」は言論の自由を自主規制によって殺したんだな、と連想した。今の烏賀陽氏は少しでも援軍が欲しい身だ。マスメディアが報道すれば、問題の所在だけでも多くの人々に認知される。だからの「AERA」の関係者を責めたりはしないだろう。しかし、誰かが彼の無念を汲みとっておくべきことのような気がした。当ブログの勝手な解釈を、ここに書き記しておく。

朝日新聞は写真記者の記事盗用によって、広告代理店にまで頼んで演出した「ジャーナリスト宣言。」のキャンペーンを引っ込めてしまった。彼らがジャーナリストとしての矜持をみせたいのなら、ジャーナリズムの危機を感じとり、烏賀陽氏の窮地を報道によって守る姿勢をみせる度量はないものだろうか。海外紙やアカデミズムが烏賀陽氏の援軍となり、お墨付きが出てから動くようならば、誰が彼らの「言葉の力」など、信じられるというのだろうか。


追記(2月21日):AERA2月26日号が「オリコン「コメント訴訟」の行方」という記事掲載