オリコン個人提訴裁判はジャーナリズムの核心を炙り出す(1)

ジャーナリスト・烏賀陽弘道氏がオリコン名誉毀損で訴えられた裁判が13日、口頭弁論を開始した。裁判は、烏賀陽氏が反訴したことで、ようやく法的にがっぷり四つに対峙するに至った。現実の訴訟を見る機会の少ない人々には、この展開は一見、泥沼化に見えてしまうかもしれない。

しかし名誉毀損裁判のような裁判は、紛争をどう処理するかについて、条文の指す内容がそれなりに明確な物権相続などの裁判とは、同じ民法上の争いであっても裁判の性格が違う。両者の対立の発火点は、オリコンの作成するチャートランキングの信頼性をめぐって語られた「言葉の中身」であって、あたりまえだが、その解釈は条文に規定されてはいない。

オリコン側が提起した裁判では、原告の設定する争点に沿って争うことになるので、被告とされた側は、その裁判の争点の設定だけでは、自分の考える法的な問題点が争点にならない場合も考えられる。つまり、被告側が自ら考える法的正当性を主張したいとき、反訴する場合があるうる。こう考えると、反訴が行われた意味が理解しやすいのではないだろうか。


この裁判の争点は、烏賀陽氏個人を狙い撃ちした裁判の外形(体裁)を法的にどう評価するのか、が最も重要だと当ブログは考えるが、それは以前のエントリー(オリコン個人提訴裁判を反スラップ法理の切り口で見る)で既に書いた。法とは、条文として成文化されたものだけを指すのではない。成文法に加え、判例はもちろん、慣習、公序良俗、そしてこれから立法化されていく未実現の価値までをも含めた規範の総体が、法と呼ばれるべきものである。つまりこの裁判が実現していく価値もまた、法なのである。反スラップの法理が今後重要な意味をもつ価値であることは確実だ。

おそらく裁判でオリコン側は、チャート作成のインサイダー(当事者)として、徹底して事実関係についての争いに持ち込もうとするだろう。しかし烏賀陽氏には、チャートをめぐって取材を経て蓄積された証言や噂などをもとに、自らのようなジャーナリストが語る言論の価値に焦点をおいて対峙する必要がある。

何事かについて当事者以外の者が語るということは、必然的にアウトサイダーの位置から語るということなのであって、もしアウトサイダーたるジャーナリストとしての語りが封じこめられてしまうなら、批評・評価・検証といった言論活動が、成立しえなくなる。烏賀陽氏の反訴は、自らの職業倫理に触れることだったからでもあるはずだ。オリコンがこの裁判を、社会的アピールの一環として位置づけている以上、両者がまっとうに相対(あいたい)するには、反訴によって社会的アピールの声をあげるしかない。


次に裁判で重要な争点は、烏賀陽氏があのコメント内容について、信じるにたる相当の理由があったのかどうか、ということになる。これに関しては、烏賀陽氏自身が過去にオリコン側に取材をしたこと、その後取材拒否をされたことで、チャート操作の可能性を信じるにたる主観的状態にあったことは間違いないだろう。

では、この彼が抱いた「主観」を、他者が客観的に見ても、「信じるにたる相当の理由」があったと評価できるだろうか。言い換えると、彼がコメントした2006年春の時点で、彼がオリコンによるチャート操作を主観的に信じるに足る、客観的事情はあっただろうか。烏賀陽氏自身が情報源を持っているのは当然として、それら以外にもチャート操作の可能性を示唆する情報はあるだろうか。

それは、ある。音楽業界に詳しくない当ブログが、音楽業界に詳しく実績のある人の言葉を信じる限り、ある。例えば下記サイトが、今回のオリコンの提訴後、2006年暮れの時点で、音楽業界関係者に行っているインタビューが明らかにしている。オリコンのチャートをめぐって語られたこれらの言葉は、事実をもとに書かれたものであって、創作ではないはずだ。


音楽配信メモ オリコン訴訟問題について音楽業界関係者に取材しました
http://xtc.bz/index.php?ID=400


このインタビューの中の証言者には、チャート操作があったことを、オリコンによる提訴があったあとでも証言している者がいる(音楽業界人(レコード会社勤務経験あり)E氏)。このサイトの管理人・津田大介氏は裁判に巻き込まれることは本意としてないはずで、事実解明を動機として音楽関係者に、ごく少人数、インタビューしただけだ。この少ないサンプルですら、チャート操作があったとの証言(「確かだ」とも発言)を引き出している。

つまりこれは、現時点でも音楽業界関係者を取材すると、オリコンのチャート操作は都市伝説と切って捨てるわけにはいかない、チャート操作の可能性を証言する者がいる、ということを意味する。このインタビューが事実であるならば、烏賀陽氏の場合、チャート操作がされていると判断していたとして、なんの不思議があるだろう。自分の取材をもとに、自分の判断を語ること。それが強圧的に封殺されてしまうなら、ジャーナリズムは成立できない。(2へつづく)