NHK裁判はウヨ・サヨの問題じゃありませんヨ

Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <番組改変>NHKに2百万円賠償命令 「政治家発言」認定
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070129-00000097-mai-soci

戦時性暴力に関する番組をめぐり、バウネットジャパンらがNHKと関係二社を相手に訴えた裁判の高裁判決が下され、バウネット側が勝訴した。今回の高裁判決は、妥当な落としどころといった判決ではないか。不当性を訴えるのに損害賠償という手段しかないとき、勝訴した側は一定の金額を手に入れることでしか、正当性を確認できない。この場合、既に5年もの裁判をしたバウネットにとって、金額などまるで意味はなく、事実認定だけが果実だ。判決の、NHK上層部が政治家との面談後、「相手の発言を必要以上に重く受け止め、その意図をそんたくして改編した」との認定は、当時の関係者間で生じた力学を、部外者の視点から常識的な解釈を示したといえる。

上記リンク記事は政治家の発言に意味を見出しているようだ。この裁判では、被取材者の取材・編集上の期待権や、制作者の独立性も論点となっている。個人的に一連の裁判で気になったのは、公共放送たるNHKに「期待」されているものは何かという問題だ。焦点の番組については、バウネットNHKに抱いた「期待」もあれば、保守政治家がNHKに抱いた「期待」もあった。両者の思惑は正反対だが、NHK上層部は両者の間で板ばさみになると、政治家の「期待」にだけ自発的に応えた。それは予算承認を大過なくやり過ごそうとした自己保身の現われだろう。問題が大きくなると、NHK上層部は、政治家の「期待」に応えたにもかかわらず、対外的に番組編集の自由と、放送の公平中立原則の大義名分を主張し始めた。今回の判決後にも、NHKはすぐに上告し、番組編集の自由といった美名を掲げている。

■きょうの判決について 平成19年1月29日 NHK広報局
http://www3.nhk.or.jp/pr/keiei/news/070129.html

今回の判決で、「政治家が番組内容に直接介入した」との原告の主張は退けられている。裁判中、原告や一部メディアは政治家の圧力があったと主張し、NHKと政治家は圧力はなかったと主張した。たしかに「公平中立な番組づくり」を要請した保守政治家は、圧力をかけたつもりはないのではないか。有権者の付託を受けた自分が望ましいと思う番組について、自分なりの信念を折にふれ述べることに何の問題があるのか、と思っているはずだ。彼らにも言論の自由はある。圧力があったか、なかったかは、バウネットと保守政治家にとって、お互いの歴史認識の違いを背景とした「主観」の問題になってくる。両者にとって圧力の有無の解釈に違いがあっても仕方がない。だが番組制作したNHKは、いかに公平中立な独立性を主観的に主張しようとも、実際の番組編集においてどのような作業をしたのか、その作業の中身こそが「客観」的に検証の対象となる。政治家との面談後、あわてて番組を改編してておいて、まるで首尾一貫した独立性があるかのように主張しても説得力があるわけがない。

この番組は、外部の制作会社が関わったり、NHK内部告発者がいたりしたので、番組改編の経過がある程度明らかになった。しかしもし今回のように問題化しなければ、これまでも、そしてこれからも、NHK内部で番組が「公正中立を理由に」改編される可能性が、ないとは言い切れない。数々の番組企画が、放送法の公平原則の名のもとに、闇へ葬りさられている可能性がある。この裁判は右翼・左翼とか歴史認識の立場の違いを超えた、問題を提起している。上告に何のためらいも逡巡もみせない、今のようなNHKが公共放送たる期待に応えることができるだろうか。

日本には公共放送の独立性を担保するシステムがない。現在のNHKには、国民の声を届かせる回路が経営委員会もしくは政治の場の予算承認しかない。BBCのように国民投票システムもないので、一般国民がNHKに関与するには、受信料拒否による制裁ぐらいしか手段がない。政治的影響を受けやすいシステムをそのままに、市場原理による監視すらも受けず、ただ独立性を主観的に主張されても、空念仏を聞いたような気にしかなれない。怯懦を内に秘めながら独立性を強弁する、そんなNHKの独り善がりを諌めるごくあたりまえの判決が下さた、というのが高裁判決の感想だ。