いま教育現場で

1月某日。弁護士会館にて、「思想・良心の自由の現代的意義を考える」と題したシンポジウム。前半の野田正彰氏の講演を聴講した。野田氏は、自由とはあくまでも個にとってのものであって集団における自由などというものはありえない、憲法19条の思想良心の自由がどれだけ尊い犠牲のもとにあるのか、歴史を振りかえらなければならない、と語り起こした。かつて広島県世羅高校の校長が自殺した事件は、日の丸・君が代を拒否する現場の教職員の激しい突き上げに悩んで自殺したと報じられたりしたが、実際は、教育委員会からの強硬な要求と、校長自らが解放運動のなかで育ってきたこと、さらに自らも教師として積み重ねた来歴との板ばさみになり、身分制を称える「君が代」などを強制する教育に苦痛を感じて死に至った、ということだった。あの頃の報道と全然違っていたが、非常に説得力のある話だった。本来は自立的、主体的な「する」人間を育てるための教育が、いま「させられる」教育が蔓延することで、教師の内心の自由が擦り減らされている状況があるというのだった。教師の業務は膨大なものとなっているそうで、小学校の通信簿でも17Pもあり(記憶の中の通信簿は、見開き2P、各科目の5段階評価と、教師の雑感だけだ)、年間210項目を各人について評価し、さらに説明責任を果たすために副表をつけるそうだ。人は過大な要求を押しつけられると、視野狭窄に陥り、大勢に流れがちになる。かつて大江健三郎が、核兵器の時代の人々の無反応さをサイキック・ナミングと表現していたが、現場の教師は業務に忙殺され、ぞういった心理状態におかれているのかもしれない。近年、病気休職者や精神性疾患の休職者が激増しているとのデータも示された。一方、いわば野田氏と立場の違う、教育委員会の立場からは、教育委員会月報という教育の現状を報告する雑誌が刊行されているとのこと。