ホワイトカラー・エグゼンプション見送りの流れに思う

労働ビッグバンをめぐり、ホワイトカラー・エグゼンプション導入も解雇規制の緩和も、はなはだ評判がよくない。しかし労働問題に精通している人たちのブログを読む限り、一応は法案の主旨に理解を示しつつ、「今の時点の」労働法制の改革には反対する、というスタンスをとる人が多い。ちょうどこれは昨年暮れの労働政策審議会の最終報告のスタンスと逆だ。最終報告はホワ・エグ(自由度の高い働き方にふさわしい制度の創設)の導入に関して、さまざまな反対の声があったことを書き込むとしつつも、その導入を求める報告案をまとめている。


彼らが反対する根拠は、労働者の健康管理が確保されない、サービス残業が正当化される、企業横断的な職種別賃金体系がオープンに存在していない、そして日本には流動的な外部労働市場が存在しない、といった点にあるようだ。しかしこういった制度の導入とそれによって生じる影響との関係は、相互に作用しあっているのであって、ニワトリが先か卵が先かの関係でもある。時代の趨勢からみて制度改革が必須なのであれば、小異を捨て、改革のための条件の議論に集中すべきではないか。


例えばホワ・エグについて、現状のサービス残業の横行している実態を正当化し、低賃金でこき使うのがホワ・エグ導入を求める経営側の意図だという見方がある。確かに経営側はホワ・エグに賃金抑制(彼らは適正化と言うだろう)を期待しているだろう。じゃあ、そのサービス残業だらけの会社を違法行為を平気でやる会社をのさばらせている責任は、そこで働く社員の一人一人にはないというのだろうか。なぜそのような会社にさっさと見切りをつけ、まっとうな働き方を目指さないのだろうか。自分一人が会社を辞めても、会社は存続し続けるし、リスクをとるのは嫌だ、と思っていないだろうか。そういう発想を皆が横並びでしてきた社会が行き詰っているからこそ、労働法制を変えようとしているのではないか。納得できない働き方を強制しているその会社、ひいてはその会社を含む企業社会を再生産しているのは働き手の一人一人であって、自らが共犯者でもあるのだ。


たしかに健康管理がおろそかにされかねない実態、サービス産業が横行している実態を放置してきた厚労省の罪は重い。もし行政がもっと積極的にイニシアチブを発揮し、企業社会の論理の暴走に歯止めをかけていたならば、違法行為を放置する企業は淘汰され、もっと柔軟な労働市場がありえただろう。しかしそうはなっていない以上、今それを目指す方向に向かうしかない。


企業社会の問題点を指摘する成果はこれまでも多かったが、それらは日本的経営の内実を問うものが多かった。「日本的経営」は戦後日本の成功のエッセンスと看做されてきたため、そういった成果は、ありふれた賞賛のネガのような指摘が多く、また企業行動を描写するレベルにとどまっているものが多い。奥村宏の法人資本主義論でさえ、個々の働き手の振る舞いのレベルにまで下りて問題性を指摘したとはいえない。企業社会の問題を指摘しようとするほど、労働者は一方的な犠牲者として認識されてきたからだ。


これらの視座の限界を突破し、日本の労働市場全体の構造が不平等(差別)と非効率を生んでいることを体系的に指摘した成果が八代尚宏『日本的雇用慣行の経済学』だ。手元の本の発行年を見ると一刷が1997年1月となっているので、ちょうど10年前だ。彼の主張のキモは、終身雇用と年功昇進・賃金とは本質的に矛盾しており、維持できないし、維持されるべきでもない、という部分にある。これは当然、職種別賃金体系を構築すべき、流動的な外部労働市場があるべきだ、という意見につながっている。なんのことはない、今回の労働ビッグバンを批判している人々が望んでいる方向と同じなのである。(一部のなんでも反対勢力は別)八代氏の本は去年ベストセラーになった城繁幸『若者はなぜ3年で辞めるのか?』にはるかに先行しながら、同じ問題意識に貫かれた本でもある。城氏の本を歓呼をもって迎えたはずの若者が、八代氏にネオリベラリズムとレッテルを貼って悦に入っている例はないだろうか。


ホワ・エグ導入は参院選対策として見送られることになったようだ。この間の報道で、マスコミが残業代ゼロ法案と書き出したころから嫌な気がした。政府主導の言葉をなんでもかんでも受け入れる必要はないが、政治的にホットなイシューになるほど、言葉遣いに敏感にならないといけない。報道では、例えば制度のネーミングだけじゃなく、内容でミス・リードする記事もあった。


労働市場改革:正社員待遇を非正規社員水準へ 八代氏示す−政策:MSN毎日インタラクティブ
http://www.mainichi-msn.co.jp/keizai/seisaku/news/20061219k0000m020089000c.html

経済財政諮問会議の民間メンバーの八代尚宏国際基督教大教授は18日、内閣府労働市場改革などに関するシンポジウムで、正社員と非正規社員格差是正のため正社員の待遇を非正規社員の水準に合わせる方向での検討も必要との認識を示した。

 八代氏は、低成長のうえ、国際競争にさらされた企業が総人件費を抑制している中、非正規社員の待遇を正社員に合わせるだけでは、「同一労働・同一賃金」の達成は困難と指摘。正規、非正規の待遇を双方からすり寄せることが必要との考えを示した。

 また、八代氏は現在の格差問題が規制緩和の結果生じた、との見方を否定し「既得権を持っている大企業の労働者が、(下請け企業の労働者や非正規社員など)弱者をだしにしている面がかなりある」と述べた。

 八代氏は、労働市場流動化のための制度改革「労働ビッグバン」を提唱しており、近く諮問会議の労働市場改革の専門調査会の会長に就任する予定。【尾村洋介】

この記事は多くのブクマを集めていたが、明らかな印象操作がある。これは記事中にもあるが「待遇を双方からすり寄せる」、つまり「正規の待遇を下げつつ、非正規の待遇を上げる」という発言をしていたのであって、正規の待遇を一方的に下げるなどということは言っていない。しかし新聞ではこういうふうに報じられてしまう。読者層の期待におもねり、事実を曲げてしまっている記事だ。確かにあのシンポジウムでは八代氏の発言が最も重要だったが、どう考えても見出しは「正規・非正規の待遇すり寄せを」であるべきだろう。実はこのシンポジウムの聴講に参加したので、断言できる。そして主張の内容もOECDの報告と合致しており、まっとうなもので、アメリカの要請で労働市場を改革を目指しているのではないか、といった勘ぐりも当らない。ニワトリが先か卵が先か、あるべき制度と実態に乖離があり、その改革が求められるとき、まずはあるべき制度の旗を掲げる必要がある。今こそ。