かつてポリティカルコンパスでリベラル右派に分類されて

これまで素朴なリベラリズムを信じる人たちと接することが多かったし、自分自身、傍から見ればそういう存在として色分けされている可能性が高い。そういう立場からいろいろ情報をくださる方もいて、ありがたい限りではあるのだけれど、おそらく自分は相手に期待されているような行動は果たせない。申し訳ない気持ちは募り、つい沈黙しがちになるが、自分に嘘はつけない。自分は走りながら考えるといった帰納的なモノゴトの整理が苦手で、演繹的によって立つ場所のことをよく考える。


M2コンビの『思考のロバストネス』の宮台真司によるあとがきに、今日の思想史的状況とその解法のスケッチが書いてある。そこでは小泉自民党政権を20年遅れのネオリベと位置づけ、現在日本でも遅ればせながら、「ポストモダン左翼+ネオリベ右翼=国家規制反対派」対「リベラル左翼+国家共同体的右翼=国家規制賛成派」の対立がようやく顕在化したとある。前者はグローバル化に棹さすが、後者は抗う、とされる。宮台はこの整理ののちに、国家否定的グローバル化の推進勢力と国家依存的ヘタレ左右との結託が現実には見られるとして、それらは国家への分裂した志向ゆえに最終的にカタストロフしかもたらさないと述べ、国家を相挟んだ個と共同体との両ベクトルの双方緩和を、G・ベイトソンをひきながら解法として挙げている。(詳しくは同文を)


これを最初読んだとき、お前はポストモダン左翼だと言い当てられた気がしたし、リベラル左翼への違和感が整理された気がしたが、腑に落ちない面もあった。国家規制反対派としてワンセットで語られるネオリベ右翼と自分の志向が現実政治においてさえ、なぜ接近してしまうのか。小泉以後の自民党政権の推進している経済政策には基本的に共感を感じつつ、一方で彼らが国家主義的(復古主義的)な糾合を希求し、教育基本法改正や共謀罪導入といった秩序維持を強化する立法をはかろうとする必然性が、自分にはよくわからなかった。それらは国家の論理を強化するのであって国家規制反対派との形容には矛盾が生じてしまうからだ。


この部分の必然性が最近理解できてきた。あまりに当たり前で頭の悪さを露呈してしまうが、仕方ない。そこで躓いていたのだから整理する。グローバル化が避けられないとき、それに対応するには国内市場を変化させなければならない。そのとき保護主義的な事前対応をもってするのが国家規制賛成派。これはわかりやすい。一方で規制緩和によって市場の構造改革を進め、新たな市場のルールの創出をはかるのが国家規制反対派となる。規制緩和によって新たな状況に晒された国内市場に秩序をもたらすのは司法の事後的な対応となる。その際市場ルールを組み替え秩序をもたらすには強力な正当性が求められる。それゆえに新たな国家的な糾合をもって正当性を備給する必要が生まれてくる。それはグローバル化への対応であり、国家のあり方を変えることである以上、ナショナリズムの新たな読み替えにつながる。そこで復古主義的な秩序でもって正当性を担保しようとしているのが、現自民党政権ということになる。


しかし、そうではない新たなナショナリズムの回路を求める発想も可能性としてはありえる。宮台の亜細亜主義とか姜尚中東北アジア共通の家構想とかは国内市場をより広域的市場の単位に組み込んでいくときの参照点として(その内容に違いはあろうとも)有効であり、そこから日本のナショナリズムを問うていく発想は、もうひとつの国家論の台頭として議論に値する。公正な市場構築のために、国家はその役割を変えつつも存続するのであって、国家の規制に対して単純に賛成・反対で切ることはあくまで目安に過ぎない。グローバル化に対応して規制をどのように組み替え、公正さを定義するかの闘争が起きているのが今日的状況だといえる。


グローバル化の要請からだけではなく、日本は国内の利益分配をめぐる事情からいっても強力な国家を要請されている。最近出た高瀬淳一の『不利益分配社会』が指摘するように、不利益のおしつけあいが今後の政治の焦点になるのは避けがたいわけで、それを実行するためにも強力な正当性を発揮しうる国家は招来される。安倍政権の「筋肉質の政府」というキャッチフレーズはかなり本質を突いたコピーなのだと感心してしまう。見も蓋もないほど正直な国家がそこにいる。とにかく現自民党政権の行動原理と自分がそこに親和性を感じてしまう理由がわかってきただけでもスッキリしてきた今日この頃。紆余曲折あっても日本の政治(いや歴史か)って捨てたもんじゃないなと最近肯定的視点で見れるようになってきた。まだ今後の現実的処方箋はわからない。ヒントは田原総一朗が新刊『憂国論』のオビで書いてあることにあるような気がするけどそれはまた別の話。