長時間労働との闘い方とは

とある集まりでILO1号条約(8時間労働制)の問題が挙げられていて、先進国の多くが批准しているのに日本は未批准だから問題だという。残業時間の上限を規制する法律もないし、労使間協定によって(36協定)によって事実上無制限に例外勤務が認められる実態があると。この条約を例に挙げて、今の雇用環境はおかしい、会社はおかしいと指弾するトーンで集まりの話は進められていた。違和感として残るものがあったのでメモ。


この条約が規定されたのは1919年。第二次産業が隆盛に向かう頃で、今とは産業構造も働き方も随分と違う。今は時間を積み上げれば成果が挙がるという仕事ばかりではなくなっているのに、いまだにこの切り口(被雇用者の労働時間制限)からみることばかりが、働き手の権利を守ることになるだろうか。たしかに被雇用者として働か「される」ことへの制限は必要だ。だがそれが一律に時間なのか、という局面に今という時代はあるのではないか。


日本では長時間勤務が常態化している。ではなぜ過労死する人がいるほどまでに「働かされる」のではなく、「働く」のかを問題視する方向に意識を変えなければならない。働き手一人ひとりが自発的に服従している同調圧力のシステムを稼動させているのは、その働き手自身でもある。長時間労働の理不尽な実態を甘受「し続ける」からこそ、そのような企業やサービスが延命する。もちろん目安となる制限はあってしかるべきだが、労働行政当局どころか、それを指弾するマスコミとて長時間労働を自嘲ぎみに語る現状では、皆ほんとうはそこに問題があると考えていない。過労死する人はたまたま不幸な人とみなされているだけで、社会全体の問題とは考えられていない。


もはや働き手としての権利の要求のかたちは、旧来型の労働条件の整備を求めるような方向ではなく、しかも企業の枠内にだけとどまって抵抗していても限界がある。権利のための抵抗が、その企業のボイコットであることは充分にありえる。これは一見ストライキのすすめのように読めるかもしれないが、そうではない。個人が商品としての自分を特定企業の狭い空間からボイコットしてひきあげる行動をとることを考えるべきだ。現在の雇用環境悪化には雇用者側の横暴ももちろんあるのだが、その横暴を支えてきてしまった被雇用者もまた共犯的存在たりうる。それを自覚することなしに、ただ被害者ぶっても説得力がないだろう。別にスローライフは提唱しない。競争から降りるのではなく、新しい競争のルールに乗り出し創り出していく姿勢が、働き手の権利行使でもあると思う。