「ニート」って言うな! (光文社新書)
仕事のなかの曖昧な不安―揺れる若年の現在 (中公文庫)
昨日7日、非正規雇用フォーラム主催のシンポジムがあり、本田由紀氏の「ニートって言うな!」と題した講演があった。プレゼンテーションを聴講して本田氏の真面目さは疑わないし、氏ははてなダイアラーであって、いずれここにも気づくだろうと躊躇するものがあるが、やはりひと言言いたくなるような内容だったので記録する。今後も話を聞く機会もあるかもしれない。


講演は若年労働市場の現状やそこに生じている問題の背景説明を統計を多用しつつ進められた。それらの部分は若年雇用問題を研究する論者であれば、ほぼ争う余地のない部分だと思われる。講演の核心はもちろん「ニートって言うな!」の表題通り、若年雇用問題をめぐる用語としてニートという言葉は不適切であって、若年雇用問題に無用の混乱をもたらすに過ぎないという氏の持論であった。


ニートという言葉が導入された経緯を語る前に、1980年代のフリーターにはじまる若年雇用問題に対する議論の変遷をたどることが行われた。その経緯の遡行は勉強になる。フリーターという言葉が90年代半ばまでは「新しい自由な働き方」というポジティブな言葉であったが、90年代後半以降は「気楽、モラトリアム」といったイメージに転換し、2000年代に入って「働くのが怖い、決められない」イメージになりガティブな言葉として受容されたという。


このように若年雇用問題は、ネガティブなイメージで語られ、不安定な雇用状態に置かれた若年層が増加しているのは当事者に責任があるという議論が大勢を占める状況であったのに対し、本田氏は2003年内閣府国民生活白書で「フリーター増加の原因は企業の採用抑制」にあるという政府見解が出たことで希望を見出だしたという。だが2004年からニートという言葉が導入され、再び若年層に責任を帰しネガティブな烙印を押す議論が巻き起こりがっかりしたということだった。


いま僕の手元にはプレゼンで用いられたレジュメがある。レジュメでは突如、2003年に国民生活白書が出て若年雇用問題のフェイズが変わったかのように書いてあるし、実際本田氏もそういう話し方をした。これは違和感を感じざるを得なかった。国民生活白書の議論の下敷きを提供したのは、紛れもなく本田氏が仮想敵にしている玄田有史氏だ。玄田氏が2001年末に出版した『仕事の中の曖昧な不安』。あの本によって中高年の雇用が過剰に保護され若年層が労働市場に参入できない現実が説得力をもって明らかになった。まさに若年層に責任を押し付ける議論を転換させた最大の功績は玄田氏にある。それをネグる講演をしていることに僕はかなり驚いた。若年雇用問題をめぐる議論の歴史的変遷に予備知識のない聴衆に向かってする講演だから我田引水は許されるということだろうか。


ニートという言葉の導入に問題があったのは事実であり、政府が統計をとるレベルでさえ定義が曖昧だった。内閣府厚労省で統計のとり方の違いは確かに混乱を招いた。しかし若者の抱え込まされた問題が、ニートという言葉が内包する教育・雇用・訓練の側面に集約的に現れていると、当事者も社会も感じ取ったからこそ、ニートという言葉は爆発的に広がったのだ。特に雇用をめぐる問題こそが今の若者のおかれている状況の中心的課題だと指し示した功績は大きい。若者といえば年代的には、モテや結婚、自己表現のあり方、社会参加のあり方など焦点化する課題はほかにもあるが、雇用こそがいま切実な問題なのだ。より多くの人に定義を超えて想像力を働かせる力がニートという言葉にはあった。ひきこもりという言葉を凌駕する展開をみせたのはそういう理由からだろう。


講演を聴いていると、ニートという言葉に曖昧さがありネガティブなイメージで社会に受容されていることを問題視しているのはよくわかったけれど、ならば雇用をめぐる用語一般に曖昧さがあるのであって、正規・非正規をめぐる用語の曖昧さを問題視したほうが生産的ではないのかとも思った。「正社員って言うな!」である。結局本田氏も玄田氏も現状の若年雇用問題の解決策を提示するとなると、さして違いがあるとは思えない。玄田氏は最近ニートをいう言葉をあまり使わないのだという。リアルな政策や実践に接続しようとする玄田氏は消耗戦の無駄を知っているんだろうなと推測する。


サイゾー5月号」で本田氏の共著者、内藤朝雄氏と後藤和智氏に対して宮崎哲弥氏が「お2人の話を聞いていると、ある種の大衆憎悪が口吻に漂っているのを看過できないんだよね」と語っている。この問題に関して誤読を許さないもの言いは3人の著者に共通する面があると僕も思う。ニートという言葉を最もネガティブにセンシティブに受容したのが著者の方々であったと言えるのかもしれない。若者支援の実践者たちのなかには二神能基氏のようにニートという言葉をネガティブに受容することを批判しつつも、ニートのポジティブなとらえ方(『希望のニート』)を語る人もいるのである。もともとニートという言葉を誤読したのは大衆であって玄田氏ではない。大衆の誤読にもつきあいつつ、当初からの問題の中心にこそ焦点を絞るべきだと思う。玄田氏の功績をネグるのは大衆を舐めてることになるんじゃないかなと感じてしまった次第。