個人とっては小さな政府、集団にとっては大きな政府だった戦後日本

これまで国の一般会計の中には、個人の救済に直接的にお金が使われる社会保障給付のほかに、結果的に人を養い福祉的な役割をしている、公共事業費、地方交付税交付金といった補助金、などがあるのを確認してきた。ちなみに地方交付税交付金は、平成19年度から国から地方への税源移譲が進んでいくので、一見、規模が縮小していく。


国から地方への税源移譲(三位一体の改革)(総務省
http://www.soumu.go.jp/czaisei/czaisei_seido/zeigenijou2.html
http://www.soumu.go.jp/czaisei/czais.html


大きな政府小さな政府」論をめぐって、社会保障給付を国際比較してみれば、「小さな政府なのは明らかだから、日本は「低福祉・低負担」の国なのであり、社会保障給付をもっと上げよ」という主張がある。確かにいま、一般予算の中の社会保障関係費のうち、生活保護の審査厳格化によるコストカット、母子加算手当の廃止、障害者自立支援法制定による支給費カットといったナショナル・ミニマムの見直しが続々と行われようとしている。


こういった状況で、弱者救済のために給付を上げよ、と「小さい政府」論の高まりを明快に批判しているのが、格差社会論ブームの火付け役、橘木俊詔氏だ。彼の近著『格差社会』からは、高度成長期後の日本では、公共事業や補助金社会福祉の役割を果たしてきたという視点は強調されない。だが、彼には『企業福祉の終焉』という著作があり、終身雇用型の会社が社会保障として機能してきたこと、つまり会社が福祉を提供してきたことを考察する視点をもっている。本当は橘木も、官の影響力が市場で増大してきたこと、例えば公共事業が企業や団体を通じて行われることで結果的に「大きな政府」として機能してきたことは、充分把握しているはずだ。『企業福祉の終焉』は、そういった企業福祉の増大の歴史を追ったうえで、それらが廃止されることを求めている。


いまこの考察で少しずつ見えてきているのは、「大きな政府小さな政府」論で、ときに経済学者ら論争しているように見えても、データにもとづく限り、見えてくる戦後日本のあり方に、差が生じるはずはないということだ。リベラル派か、ネオリベ派か、人はすぐに党派的な色づけをしては、攻撃し合ったりするけれど、互いが違った定義をしている「大きな政府小さな政府」論を闘わせていても、生産的な意味はない。要するに戦後日本は、個人への直接給付される社会保障費が少なかったという意味では「小さな政府」だったのであり、一方、集団(企業・団体)に対して公共事業や補助金を使って社会保障的な役割を果たす税金が投入されてきたという意味では「大きな政府」だったのである


国の予算は通常国会で審議される一般会計だけでなく、特別会計という予算がある。一般会計予算の、社会保障費、公共事業費、補助金といった、カッコつきの「社会福祉」だけをみても、見落としているものがある。一般会計よりも膨大な特別会計も、事業団体である企業・団体といった集団をとおして、福祉的に金を分配する役割を果たしているからだ。ここまで含めて考えてはじめて、官製市場の姿がほのみえてくる。次にこの隠れた予算と呼ばれる特別会計について考えてみたい。