『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』城繁幸著

3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代 (ちくま新書)
日本人が自明のものとしている働き方の神話解体を、20数名の若者の人生を描きつつ試みた、新しい時代の空気感を感じさせてくれる書。著者は、年功序列・終身雇用といった今も基調にある日本的雇用の型を、昭和的価値観と名づけ、その解体の必然を説く。自分は著者と、労働市場の現状認識において、基本的に同じ見方に立つ。だから、どうして自分にはこうした本(文章)が書けてないんだろう、という複雑な思いも少しした。が、著者には自分にはない切り口があるなと、読みながら気づかされた点もあった。

例えば、労働市場の行方について関心をもっていることはよく似ているが、著者は組織の中で生きている人間のことを踏まえて、個々人の身の処し方について多くを語っている。自分は(このブログで)非常用雇用者の問題を中心に、あるべき政策論について語りがちだ。読む人間にとって、自分の身に引きつけながら読めて、モチベーションがあがるのは、明らかに著者のようなスタイルだ。あるべき政策論というのは、それが実現されないと自分は変われないと言っているような面があって、どこか人任せな語り口になる。そうしたものよりも、変わりつつある時代の中で、自分自身どう変わるべきか、そのヒントとなる情報を、人々は求めているだろう。

また、著者の前著を読んだ時も思ったことだが、自分は、ひとつの行動様式を昭和的価値観と名付けるネーミング力、というか、大づかみにものごとを把握して提示する発想力がなかった。高度成長期以後に確立したにすぎない日本的雇用の型を、「昭和的」と要約することで、新しい価値観と対比させて語る大胆な視点が、自分には欠けていた。批判の焦点はギュッッと絞り込まなければ、うまく撃てない。

そしてなによりも、昭和的価値観に対峙させる新しい価値観として、必ずしもひとつのモデルを語っていないこと、多様な生き方・働き方を肯定していく視点が、著者にはある。日本的雇用の生み出している不公正さに不満をぶちまける自分は、日本的雇用の標準型に拘っているからこそ、パラノイアックに言及してしまうところがある。しかし、いくら終身雇用のおかしさを説いてみても、そうした組織で生きていく人間はいるのだし、辞めさせることもできない。ならば、それを批判するばかりではなくて、そうではない生き方を自分で選びとっていくしかないのだ。

最後に一点。著者は政策論として、日本の労働市場への処方箋として、オランダの例に言及している。従来、オランダモデルが実現したワークシェアリングは、既存左派が、労働時間のシェアの観点からもちだすことが多かった。しかし本来、ワークシェアリングとは、賃金と雇用機会のシェアでもある。時短による雇用創出とともに、同一労働同一賃金と雇用の流動化を同時に機能させて、はじめて意味がある政策だ。著者が既存左派を厳しく批判しているだけに、もう日本の改革の出口戦略は、絞られてきているのだと実感した。(・・・ってまた政策に言及するのかオマエは)

専ら派遣こそ派遣労働を貶めている元凶

(前日分からつづき)民主党の派遣法改正案には専ら派遣の規制が盛り込まれている。

http://mainichi.jp/select/today/news/20080419k0000e010070000c.html

企業が人件費抑制のため人材派遣の子会社を作り、親会社や関連会社に限定して派遣するなどの「専(もっぱ)ら派遣」も規制する。現行制度が「派遣先拡大の努力が客観的に認められない」などとあいまいな規制にとどまっているのを見直し、「提供する労働者の5分の4以上を特定の1社に派遣してはならない」と明確化する。

常用雇用と非常用雇用の格差という面でみるなら、専ら派遣こそ雇用格差の象徴的事例だ。同一事業者内で活用する人材を募っておきながら、企業が常用雇用の場合に負担すべきコストを回避するためだけにダミー会社を設立している。専ら派遣は、派遣業一般が、労働市場における人的資源の流通への貢献を目指しているのとは(たとえそれが建前だったとしても)、根本的に異なる業態だ。企業から見て人材を低コストで使い捨てられるというだけでなく、社会政策の面から見ても、社会制度上負担するべきコストの露骨な回避でもあり、人権侵害の装置のようなものだ。その違法・合法の判断基準は、以下のようなあいまいなものでしかなかった。

http://tutida.livedoor.biz/archives/50329618.html

専ら派遣は、終身雇用が前提で、かつ女性労働を副次的なものとみなしてきた日本の労働市場が生み出した、あだ花だ。民主党案は「提供する労働者の5分の4以上を特定の1社に派遣してはならない」などとしているが、この数字は何の根拠によるのだろうか。専ら派遣のような業態を追認するだけの数字になってしまうのではないだろうか。少なくとも専ら派遣で働いている労働者のほうを向いて出された数字ではなく、専ら派遣を活用している企業のほうを向いて出された数字に思える。今後、定年退職した人材を受け入れる入れ物として拡大する可能性があるが、雇用差別の温床以外の何者でもない。


以下の記事で、派遣法の分野で著名な脇田滋氏が、専ら派遣は日本にしか見られない仕組みだと指摘しているのを読んだ。

  • 東京新聞:子会社→親会社に低賃金労働力 “違法”野放し『専ら派遣』 あいまい禁止基準:社会(TOKYO Web)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008041302003352.html

脇田滋龍谷大教授(労働法)の話 専ら派遣は外国には存在しない日本独自の仕組みだ。企業は安上がりに派遣労働者を長期確保する目的で系列派遣会社を利用している。だが、常用雇用の代替として派遣労働を利用しないことが労働者派遣法の基本であり、これに反する専ら派遣は許されない。非正規雇用を拡大させ、雇用の不安定を招く重大な要因となっており、厳しく規制する必要がある。

この記事で、金融・保険業界では6割以上が、さらに日本郵政や大手アパレルグループといった日本を代表するような企業が専ら派遣を活用していることが出てくる。日本的雇用を色濃く残す企業で、専ら派遣のような差別的雇用が横行しているとみていいだろう。この東京新聞の記事は、専ら派遣をとりあげたはいいものの、問題企業を大手アパレルグループとぼかして記述している。日本のマスメディアの限界を知らしめてくれる記事だ。武富士の広告引き上げを覚悟で批判記事を書き続けた中日新聞と同系列なのに、このヘタレぶりはなさけない。


最後に、確認のためのリンク。派遣法改正をめぐって政府の論議は、以下の「今後の労働者派遣制度の在り方に関する研究会」で進められていた模様。近しいテーマで「有期契約労働者の雇用管理の改善に関する研究会」というのも始まっている。
http://www.mhlw.go.jp/shingi/other.html#syokuan


ともかく、働き方に規制を加えることで、格差是正をうたうのは、手段として間違っている。政治は、社会保険の適用に必要な雇用期間が現行2ヶ月になっているのを、1ヶ月にするといったふうに、セーフティネットのあり方を変えることが、格差是正だと気づくべきだ。手を突っ込むべき第一は、事業者のあり方でなく、国の制度のほうだ。働き手にとって、日雇い派遣のような働き方を利用したいという声はあったとしても、専ら派遣のような働き方に甘んじたいという声はないだろう。専ら派遣のような、派遣労働の名を借りた身分差別の固定化・再生産の仕組みこそ、最大の規制対象でなければならない。今のポピュリズムに充ち満ちた流れに抗して何か書いておかないと、日雇い派遣で働いているような当事者が、本当に報われない。労働関係のイベントがさまざまに行われる今の時期、ひとつの労働運動のつもりで、一文を書いてみた。

日雇い派遣原則禁止論の皮相さ

いま進みつつある派遣法改正論議がおかしすぎるので、思うところを書いてみる。 民主・社民・共産の派遣法改正案が出そろい、すべて日雇い派遣禁止が主眼になっている。公明も日雇い派遣禁止を提唱していて、自民にも同調者は多いと思われる。見たくないモノにフタをして見ないようにするだけの、人材派遣=ピンハネ悪徳業種の発想の域から出ない、その場しのぎの派遣法改正が、これまでと同じように繰り返されてしまう、と自分は見ている。

http://www.dpj.or.jp/news/dpjnews.cgi?indication=dp&num=13148

  • 社民党OfficialWeb┃政策┃労働者派遣法改正案の方針と骨子

http://www5.sdp.or.jp/policy/policy/labor/labor0804.htm

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-04-11/2008041105_02_0.html

派遣のような業態は、短期のものほど需要と供給の両サイドをつなぐ役割に社会的ニーズが高じる。短期の急務の需要を満たすからこそ、派遣なのだ。長期の派遣を許容すれば、派遣の活用が直接雇用より低コストの場合、搾取の様相を帯びていく。日雇い派遣のような登録型の短期派遣の形態は、適切に運営されれば、社会的な存在理由は十分ある。問題はその“適切”の中身であって、そうした派遣で働く労働者が一方的に不利益を被らない労働者保護の仕組みをつくることが重要だ。


日雇い派遣原則禁止論のおかしさは、濱口桂一郎氏がウェブ上では孤軍奮闘の感で指摘を続けている。自分は共感しているが、現在こうした意見は圧倒的少数派になってしまっていると思う。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/21seiki02haken01.html

そもそも「日雇い派遣」の何が悪いのだろうか。フルキャストグッドウィルが悪いというのは個別企業の問題である。「日雇い」も「派遣」もそれだけでは禁止されていない。それが組み合わさるとなぜ禁止しなければならないほどの悪さが発生するのか、説得的な論拠は示されていない。生活の安定という観点からすれば、直用であれ派遣であれ日雇いは究極の不安定雇用である。そして、我々は今まで、そういう不安定な日雇い就労を何ら制約することなく、存在することを認めてきたのである。

濱口氏が従来から主張している、業者規制の強化でなく派遣先責任の拡張による労働者保護の強化に主題をおき法改正を目指すべき、という意見も傾聴に値する。

  • 解説委員室ブログ:NHKブログ | 視点・論点 | 視点・論点 「労働者派遣システム再考」

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/7872.html


民主党は雇用期間2ヶ月以下の派遣をなくせと提案している。これは健康保険・厚生年金の適用対象期間が影響しているようだ。2ヶ月以上の雇用義務を課しておけば、社会保険がカバーできるという発想らしい。しかし現行では2ヶ月で期限をきって、そうした社会保険の適用を回避して非常用雇用の募集を繰り返すことは合法だ。実際にそうしている企業は存在する。また1ヶ月ごとに雇用契約書を繰り返し出させることで社会保険を回避する手口もある。民主党案は、そうした働かせ方があることを踏まえながら、発想したものと思えない。

http://www.dpj.or.jp/news/files/080423koyo.pdf

日雇い派遣という働き方が不安定就労の根本原因ではなくて、労働市場に参加しているにもかかわらず、長期に単一の企業に勤務することを介してしか恩恵に浴すことが出来ない社会保障の仕組みが強固にできあがってしまっていること、そうした社会制度のありようが、就労の不安定さ、ひいては貧困を生み出している要因だ。長期雇用を前提としない働かせ方を活用すれば、社会制度上かかってくるコストを合法的に回避できるようになっているからこそ、企業は日雇い派遣のような非常用雇用を増やしてきた。それは企業経営の当然の選択の帰結だ。

企業が非常用雇用を活用する際に要求される社会制度上のコストが低すぎることが問題なのであって、そうしたことを見据えていない議論は、皮相的と言わざるをえない。だからこそ短期の派遣を規制するのだというかもしれないが、では他の短期の非常用雇用者が社会保険の適用外のリスクにさらされることは放置しておいていいのか?たとえ日雇い“派遣”が減ったとしても、日雇いに等しい不安定就労が増大するのであれば、意味がない。

日雇い派遣がクローズアップされたのは、ネットカフェ難民などとマスコミに名づけられたホームレス状態の人々の就労形態として注目されたからだろう。なぜ日雇い派遣でしのぐ人が増えてしまったのか、政党も、労組も、マスコミも、その大勢は、踏み込んだ考察をしていると思えない。日雇い派遣の増大は貧困の原因ではなく、結果だ。一度貧困に陥ると這い上がるのが難しい、社会制度上のセーフティネットのありように根本原因がある。日雇い派遣の増大という現象だけを強制的に抑え込んでも、彼らの口にする格差是正の名目には、長期的には全く役に立たないだろう。(タイトルを変えてつづく)

一日付けでカキコ。ブクマをはじめて丸2年。これまで1日平均21ポスト。ブクマが提供するソーシャリティは検索よりも密度の濃い情報の世界へ導いてくれる。自身の一部を社会に預けてしまうような不安感は消えないが、それなしに社会からリターンを得ようとするのは不純な気がしている。 公開しておくと、個人的な関心のアーカイブを超えて、誰かがツールとして活用してくれる時もあるかもしれない、と少しだけ意識している。今後も今の暇人ペースが続くかはわからないが、ブクマは弱者のための革命的ツールだとの思いは変わらないので、それなりのペースで使っていくだろう。しかしブクマのタギングなどよりも、もっと強い意味性を付与させたコンテンツほど、リターンは多いはず。自分は、消耗を恐れず、多様なメディアの使い方を試行すべき時だ。ブクマ2年を経て、何を今更のつぶやき。

http://www.asahi.com/job/news/OSK200804250070.html

  • asahi.com:「こんな働かせ方、おかしいですから」涙の全面勝訴 - 関西から一部引用

http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200804250108.html

一審判決の2カ月後、吉岡さんは、キヤノン偽装請負について衆院予算委員会で語った大野秀之さん(33)らとともに「偽装請負内部告発する非正規ネット」を旗揚げした。07年7月、国会議員らに同行してもらい、厚生労働省の高橋満・職業安定局長(当時)に面会した。
 高橋局長は「企業活動を支えるのは労働者であるわけで、企業も責任を感じてきているんだろうと思っている」と述べた。そこで吉岡さんは、地裁判決が厚労省より踏み込んだ見解を示したことに言及した。
 吉岡さんらは、労働者派遣法の定める1年の期限を超えて使われてきたのだから、定年まで勤められる正社員化が行われなければならないと考える。しかし、局長はそうではなかった。「できるだけ長期の雇用が望ましいが、(厚労省に)それを強制する権限はない」
 吉岡さんは社内でただ一人の「期間工」として5カ月、無意味としか思えない作業を強いられた末、愛着のある職場から追い出された。それを是正させることは不可能という見解だった。

派遣法の直接雇用の申し込み義務が形骸化しているなか、立法趣旨にそった判断がでた(偽装“請負”だ云々の用語上の差異は、こうしたフルタイムでの働き方を考えるとき、ほとんど意味がない)。当ブログから見れば、「望ましい」雇用形態があると考える厚労省のこの役人の発想がそもそもおかしいのだが、内部告発への制裁的な処遇と雇用の打ち切りをした外形的事実だけでもってしても、違法なことが行われたと考えるべき事例だ。派遣は低い処遇で働くリスクをおかし、企業にその分のメリットを提供している。

であるならば、企業も長期で雇い入れるリスクを負担すべきだろう。企業に一定期間後に課す義務を直接雇用の申し込み義務でなく、直接雇用の義務にしてしまえば、かなり状況は変わるはずだ。そして直接雇用も期間別に分かれている場合、一定期間後に、より長期の雇用契約を課するのはどうか。そうすれば企業の雇用管理は相当変わる。非常用雇用者に一方的にリスクが押しつけられている現状は、期間の定めのない雇用を「望ましい雇用」と考えている発想の裏返しでもある。その意味では、今後彼が期間の定めなき雇用を得たとしても、それで済まされるべき問題でもない。

切り取ることのできない言葉。死刑制度について語った言葉で、これほど目の離せない、ひとつながりの言葉に出会ったことがない。即答でこれだけのことを語っていることに驚嘆する。自分が死刑制度について考えるとき、今後幾度となく参照することになると思う。

  • 光母子殺害:【本村洋さん会見詳細】<2>「どこかで覚悟していたのではないか」 - 毎日jp(毎日新聞)から一部引用。

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080422mog00m040014000c.html

 −−死刑というものがあるからこそ迷い、悩んだと聞いた。判決を聞いてどうか。
本村 死刑という問題は、法治国家にとって古くて新しい問題で、答えはないものと思います。ただ、人の命をもっとも大事だと思って尊ぶからこそ死刑という制度があった。この判決を受けて、死刑は重過ぎるという人も適罰という人もいると思います。ただ、それを論じても意味のないことで、どうすればこういった犯行や少年の非行を防げるかということを考える契機になると思う。死刑というものがなくて、懲役刑や、短いものだったりした時、だれがこの結末を注目し、裁判経過を見守ってくれるのか。死刑というものがあって、人の命をどうこの国が、法律が判断するかを国民のみなさんが一生懸命考えてくれたからこそ、これだけの世論の反響を呼んだ。当然いろんな議論があります。いずれにしても目的は安全な社会を作ること。どうすれば犯罪を減らせるか、死刑を下すほどの犯罪をなくすことができるかということに人々の労力を傾注すべきだと思う。両手放しに死刑は必要だとか、間違っていないとは言えない。常に悩みながらこの制度を維持することに本当の意味があることだと思いを新たにしています。

労働CSR包囲網による労働運動

http://www.asahi.com/national/update/0408/TKY200804080324.html

http://www.seinen-u.org/sukiya.html
週刊東洋経済」や「週刊ダイヤモンド」でもとりあげられていた、会社側がアルバイトを雇っておきながら一方的に個人請負契約だと主張するゼンショーの「偽装雇用」の問題に新たな展開があったようだ。あまりにひどいので、すき家はもともと行ったことがないが、今後利用することもないなと思いつつ記事を読んだ記憶がある。本来、こんなものは労働基準監督署が事情聴取して速攻で指導し、制裁が課されなければなければならない事例だと思われる。が、会社側は痛手を負うこともなく、営業を続けているようだ。

すき家はテレビCMを見たことがあったので、労働組合(当事者)の闘い方として、考えていたことがある。労働組合のサイトをみると、各地のすき家の店頭で、宣伝活動をしているらしい。それはそれでいいとして、労働運動として、会社側との直接交渉、次いで公権力への訴えと経たら、さらに取引先の関係企業にも接触してみてはどうだろうかと考えていた。以下は、別にこの事例の労働運動に限らず応用できるもので、地味な作業でありながら、企業の社会的責任を問いただす方法として使われるなら、社会の透明化に資する方法だと思う。

例えば、すき家はタレントを使ってテレビCMを流しているので、タレントの所属事務所とテレビ局など広告関係の取引先を手始めに、ゼンショーが取引をしている関係企業に、ゼンショーの企業活動にどのような問題点があるかを伝え、それに対してどういう見解をもつか、今後どのような取引関係をもとうとしているのかを質問し、回答を求める。そして質問状と回答をウェブ上ですべて公開していく。ゼンショーの経営姿勢を関係企業が許容すると回答するにせよしないにせよ、ありのままを公開して、第三者が関係企業の企業倫理を検証できるようになればよい。周辺から圧力を加え、搦め手から攻めるのだ。

多国籍企業が途上国の企業と取引している場合、途上国側企業に児童労働や強制労働の実態はないのか、労働条件において人間的な働き方は確保されているのかを問う運動があるように、ひとつの企業内部で公正な労働が確保されているのかを問う重要性と同時に、取引先企業で公正な労働が確保されるているかも、企業の社会的責任と認識されるようになってきている。労働条件面での企業の社会的責任は労働CSRと呼ばれるわけだが、それを労使交渉の対象企業だけでなく、取引先企業にまで広げて求めていくことで、労働運動自体が、ひとつの企業を対象としたものから、社会的な波及効果をもった運動になっていくのだ。先の質問で、ウチの企業の問題ではないから関係ないと回答する企業は、労働CSRの意識が低いことが暴露されることになる。

企業別組合が基本の日本の労働運動は、基本的に個別企業内での労働条件の改善を勝ち取れば、そこで運動は急速にしぼんでしまう。すき家の問題を追及している労働組合は、サイトを見ると、個別企業での分会は作らないらしい。そうした、労働運動とは企業の枠を超えて追求されるべき活動だと自覚している労働組合は、貴重な存在だ。労働組合の社会的責任を果たすという発想に立つなら、組合活動は必然的に個別企業を超えていくものではないだろうか。もし上記のような運動が広がっていくならば、企業に労働CSRの内部統制を整備させる契機になるのではないかと夢想する。